説明文
塔跡の北方に建つ建物で、中世に建てられた光明真言堂の後身。同寺は天平宝宇8年(764)、称徳天皇が鎮護国家のために四天王像の造立を発願したことに始まり、翌年に創建されたものだが、その後、度重なる火災や兵火によって建造物のほとんどを焼失した。現在の本堂は、文亀2年(1502)の兵火のあと、宝暦年間(1751~64)に再建されたものといわれていたが、後の調査によって、寛政年間(1789~1802)にそれまでの仮堂を廃して着工、文化初年に完成したものであることが判明した。桁行7間(24.395メートル)、梁行5間(16.825メートル)で、寄棟造り・本瓦葺き。土壁を使わない総板壁の珍しい建物である。また、内陣の四面に外陣をめぐらす古風なもので、外部は桟唐戸(さんからと)を用いるほか、連子窓(れんじまど)、長押(なげし)、切り目縁など和様を主としているところに特徴がある。外陣を化粧屋根裏として、内陣に小組格天井を高く張るのは中世以来の一般的手法であるが、入側柱(いりかわばしら)を天井裏まで延ばして小屋梁を支えているところは近世的な構造といえる。全般に装飾などの少ない、やや簡素な堂宇であるが、奈良地方の近世仏堂としては、規模、意匠ともに優れたもののひとつに挙げることができる。