説明文
大安寺はかつての平城京左京六条と七条の四坊に位置し、伽藍は道慈律師が長安の西明寺の様式をもって建立したといわれている。
主要伽藍は南大門・中門・金堂・講堂が南から北へ一直線に配され、小山の大官大寺と配置が同じになるが、塔は六条大路を挟んで南大門の南にあり、しかも東西に二基並んでいた。東塔跡には土壇と基壇延石、西塔跡には心礎が残っており、早くから国の史跡に指定されている。
これらの塔は天平十九年(747年)の段階では完成しなかったが、天平神護二年(766年)には東塔に震災があったという記述が続日本紀にあるため、このころには竣工していたとみられる。 さらに塔は寛治八年(1094年)の『官宣旨案』『七大寺巡礼私記』ともに七重塔であったとされている。
なお、塔が伽藍廻廊外に位置することについて、塔への落雷が伽藍の延焼を招きかねないことから、特別に廻廊外に建てたとする説、長安の薦福寺の塔配置を道慈律師が造営に際して採り入れたとする説、当初は廻廊内に建つはずであったが、造営が進む段階で廻廊が縮められ、僧坊が廻廊全面まで延びたため余地がなくなったとする説なとがある。
この二編の伽藍図が描かれた目的は明らかではないが、盛時の大安寺の様子をしのぶことができる。